中村建設株式会社は、おかげさまで60周年。今までも、そして、これからも。

  • 1908→1959[昭和41年→昭和34年]
  • 1960→1969[昭和35年→昭和44年]
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中小企業のモデル会社を創る

【創立期のエピソード】
中村建設の初代社長に就任した竹蔵は、明治、大正、昭和の三代に渡って、土木建築業一筋に生きた。
その信念と技術力は今日の中建に脈々と受け継がれている。

1908(明治41)年、19歳の若さで兄の竹次郎とともに土木工事請負業を始めた竹蔵。1944(昭和19)年に創設した中村組では専務として兄を補佐し、着実に事業を拡大していった。
1955(昭和30)年、中小企業のモデル会社を創るという志のもと、中村建設を創設し、初代社長に就任した。40年に渡る土木建築業人生で築き上げた竹蔵の信用はあまりにも尊く、長男の一雄たちはその後ろ姿から多くのことを学んだ。無欲で仕事一途な真の土建人・中村竹蔵は中村建設の基礎を築いた精神的支柱として、今も社員たちの心に生き続けている。

■竹蔵、兄の竹次郎とともに土木建築請負業を創始

中村組、中村建設の基盤を築いた中村竹蔵は、明治23年、7男1女の次男として生まれた。中村組の専務として兄を支え、中村建設の初代社長、県建設業協会相談役、雄踏町町会議員など数々の要職に就きながら、常に謙虚な姿勢を失わない人格者だった。
 竹蔵は、明治41年、わずか19歳にして兄の竹次郎とともに土木建築請負業を創始。浜名湖周囲の湖面埋立て、養魚場の築造、郡道工事を施工するなど、清貧の家計を助けた。
大正9年には、7人兄弟全員が順次静岡県の指名請負人となり、共同企業体を結成。工事の受注体制は目に見えて強化されていった。
 こうした体制のもと、県庁指定請負人の7人兄弟は、それぞれの名義で工事を取り、それらの施工は共同経営方式をもって、長兄竹次郎により統轄管理されていた。
逆境の中で育まれた兄弟間の信頼関係は一枚岩のように固かった。中村一族がめざましく発展していったのは、この「信」が家風になっていたからだ。

昭和初期気多村土留擁壁工事現場の写真
昭和初期気多村土留擁壁工事現場(竹蔵右から5人目)
若き日の竹蔵
昭和5年若き日の竹蔵(40歳)

■株式会社中村組創設 竹蔵、専務取締役に就任

昭和19年、国家総動員法の企業整備令に基づき、土建業はすべて法人化に。これによって、株式会社中村組が創設され、竹蔵は専務取締役に就任した。資本金19万8千円でスタート。戦乱の中で、竹次郎社長と阿吽の呼吸で事業を展開していった。
 事業において、竹蔵が最も大事にしたことは報告と事前の打ち合わせだった。夜遅く帰宅して夕食を済ませると、すぐ本家に出かけて竹次郎社長にその日の業務報告をし、もろもろの対策の打ち合わせをするのを日課にしていた、一雄も必ず同席した。この習慣は、竹次郎社長が亡くなる前夜まで行われた。
 昭和25年。中村組は建設業界にあって、名実ともに西部の雄として君臨していた。昭和27年に中村組の総帥、竹次郎が死去すると、社内が大きく揺らぎ始めた。「後継社長を誰にすべきか?」という問題が浮上したのだ。竹蔵の提案で、竹次郎の妻やつが二代目社長に就任したが、会社全体の士気を高めるには至らなかった。
 昭和28年、名古屋営業所が庄内川枇杷島橋架換工事の入札指名を受けた。基礎工はウェル下げによるもので、戦前に竹蔵が辛酸をなめさせられた天竜川鹿島橋と同じタイプの工事だった。捲土重来を誓って臨んだ。竹蔵の指示で、ウェル下げにサンドポンプを使用したことが大当たり。庄内川の土質が砂質なので、サンドポンプを使えばきっとうまくいくと考えた竹蔵の知恵。長年の経験から生み出された竹蔵の「カン」に敬意と感謝を捧げた一雄だった。

昭和30年頃の庄内川枇杷島橋の写真
昭和30年頃の庄内川枇杷島橋

■竹蔵と一雄、中村組を円満退社し中村建設株式会社設立

昭和30年、竹蔵は65歳、一雄は40歳の不惑の年齢を迎えていた。
 「これから100年先まで考えた場合、同族会社のままでは存続発展していくことは難しいと思います。発展的に独立しましょう」と、弟の良一とともに竹蔵に進言した。
 この年の定時株主総会で、竹蔵と一雄は取締役の辞任を申し出て、円満退社。昭和30年6月16日、中村建設株式会社設立。竹蔵が社長、一雄が専務、土木部長、名古屋支店長を兼任、次男の良一が建築部長に。

■竹蔵、古稀を機に社長を勇退一雄、二代目社長に就任

会社を作ったものの、設立当初の受注は苦戦を強いられた。竹蔵も一雄も、近隣の町内はもとより、農協、漁協、そのほか工事のニーズがありそうなところを靴底を減らして片っ端から歩き回った。浜松市の水道部から4,500円の工事を初受注した時は涙を流して喜び合った。これも竹蔵が、中村組の時代から40年に渡って築いた信用があったからこそで、商売に信用がいかに尊いものであるかを教えられた。
 昭和35年、竹蔵は70歳の古稀を機に社長を勇退し、会長に就任。44歳の一雄に社長を譲った。無欲恬淡の人らしい、潔い引き際だった。
 「誠実ことに当たれ、真心こめて行ったことには、必ず報われる所がある」と諭し、結果よりもプロセスを重視した竹蔵。人の嫌がる仕事や困難なことに敢然として立ち向かい、使命感に燃えて指導する後ろ姿から、一雄ら子どもたちはもちろん、社員たちも多くのことを学んだ。

1908[明治41年]

中村竹蔵(初代社長)は、亡兄株式会社中村組初代社長中村竹次郎と相提携して土木請負業を創める。

初代社長 中村 竹蔵
中村建設株式会社 初代社長
中村 竹蔵
明治23年4月3日生浜名郡雄踏村(現雄踏町)に、父庄七母みつの次男として生誕。明治、大正、昭和の三代に亘って土木建築請負業一筋に行き、昭和41年6月21日未明没。享年76歳
戒名:建徳院竹翁清節居士

1920[大正9年]

1月1日
中村竹蔵は、初めて静岡県庁の指名請負人となる。

1944[昭和19年]

3月
企業整備令に基づき、企業合同を為し、株式会社中村組が創設され、中村竹蔵はその専務取締役に就任する。

1955[昭和30年]

5月
中村竹蔵は、株式会社中村組を退社し、元の個人営業に復元する。

6月16日
中村良一氏経営の中村建設を吸収合同して、法人組織中村建設株式会社を創設し、中村竹蔵初代社長に就任する。
資本金 300万円
本 社 浜名郡雄踏町宇布見5165
名古屋営業所を開設

(旧)中村家外観
ひとづくりの場であった(旧)中村家
昭和30年頃の柳通り
昭和30年頃の柳通り(中村建設前)

1956[昭和31年]

7月1日
元横須賀鎮守府司令長官海軍中将
戸塚道太郎 顧問就任。

1957[昭和32年]

5月29日
本社所在地を浜松市中沢町840番地に変更する。

1958[昭和33年]

9月26日
22号台風来襲(伊豆狩野川に死者、行方不明者1,189名の被害)。また、当社も17号台風により、西俣治山、大千瀬川の工事現場等で被害を受ける。

1959[昭和34年]

8月14日
取締役工務部長 中村良一逝去(磐田郡水窪町において林道工事指導中殉職)。
故 中村良一氏

9月26日
伊勢湾台風来襲、同台風による死者、行方不明者5,041人。災害復旧のため木曽川護岸工事その他に従事。

宇布見橋
宇布見橋
木曾川新所護岸災害復旧工事の様子
木曾川新所護岸災害復旧工事